議論のための資質の格差

人間の行動原則の正し手を、
 宗教に求めたユダヤ人。
 哲学に求めたギリシャ人。
 法律に求めたローマ人。
塩野七生著『ローマ人の物語』より

 同書ではこの後、規範として、宗教は同じ価値観でしか共有できない、哲学はそれを理解するだけの資質がないと共有できない、法律はそれらの差異があっても規範として機能するという事を、ローマ帝国が多様な国や民族を長期間まとめ上げた源と述べています。
 さて問題は、インターネット上などでは、赤の他人と議論しなければいけない事がしばしばある。もちろん一番守るべきは、そうした議論がなされる場の「法律」なわけですが、その上で議論をするに必要な「資質」に格差がある場合はどうしたらいいか。
 私が気が短いので、つい「中学生の数学の話題に(私の素人談義もその程度の事に過ぎない)、四則演算もろくにできない人が「変な数式をごちゃごちゃ言うな」と喚きながら意見を押し込むような事をされても困る。せめて基本的な勉強ぐらいして欲しい」と言ってしまうのですが、まあ、それがわかる人ならそもそもこんな事はしません。
 ギリシャ人といえば、この手の人はソクラテスの「無知の知」を、自分が勉強する事では無く、相手の論旨や根拠に反論できなくなった時に、相手を貶める事にもっぱら使いますし。昔はまだ、知識や見識で相手に圧倒されるという事が比較的多かったですが、今では物知らずな人が自分と同レベル以下に貶めようとするようなケースとばかり出くわす。私が歳を取った以上に、ネット人口が増えて、資質不足な人の絶対数も増えた事が原因なんでしょうなあ。
 結局「エネルギーがあるなら、馬鹿には関わらず、まともな議論が出来る人相手にエネルギーを向ける」としかしようが無いのんでしょうけど。