MUSASHI -GUN道- 第3話

 『MUSASHI』を見ていると、普通のアニメやそのほか映画類で我々が当たり前と思って特に気にしないで見ている事が、カットとカットの間を自然に繋がるようにするなど、一定以上の気づかいをした上で作られている事が再確認できます。

 冒頭、夜叉と出くわしたでスペラードが、通常弾が効かないので対魔物用の弾を使おうと、敵の目の前のそれも至近距離で自分で説明しながら普通に装填していていて「その間に攻撃されないか?しかし攻撃の準備通中になぜか敵が攻撃してこないのはマンガでは良くあることだから.......」と思ったら、ようやく装填を終えて照準を合わせようとしたと気に、隙だらけの相手を普通に妖術で攻撃して昏倒させる夜叉に笑った。
 「不覚」って、そりゃあ敵の目の前でつっ立って弾込めしていたら......
 まともな演出なら、すばやく間合いをとって弾込めするか、あるいは撃つまで敵は攻撃しないかどちらかですけど。このあたりがGUN道クオリティの一端。

 四列以上並んでいたはずの門弟たちが、次のカットではなぜか一列になっているのも、GUN道クオリティの一端。

 なぜか人物の輪郭に白い線がしばしば出てくる。ろくでもない事には間違いないでしょうが、原因は何でしょう。
 ただ第一話からの「佐々木小次郎」についての言及を間接的にとどめつづける事で強大さを強調する作劇だけは、この作品の唯一の誉めどころ。

 デスペラード大徳寺にやってくるシーン。門弟たちが整然と並んで修行している正面から来ているのに、次のカットでは門弟の一人は斜め後ろを見て彼女を見て、さらに次のカットでは再び前の方から来る彼女を見ている。また次のカットでは、そうして呼び止めるとかなり密集していたはずの門弟たちは、なぜかその門弟一人だけになる......。まともな演出なら「デスペラードの側に門弟の一人が歩み寄る」という動作を入れるだけで自然に繋がるのに、それができないのがGUN道クオリティの一端。
 その報告を「道場内で」聞いた武蔵の反応カット、なぜか空が映っている。しかし次のカットではまた道場内に戻る。
 そして沢庵が女嫌いでは?と武蔵は考えるが、そのシーンでは普通に騒動を不快に思っているだけに見えて、女性を特別嫌っているようには見えない。さらにその直後のシーンでは、デスペラードにロウニンが「お前本当にデスペラードか?」というがいつもの彼女とどこかが違うのかさっぱりわからない。これもGUN道クオリティの一端。
 沢庵に余裕であしらわれているようにしか見えないデスペラードをみて、「デスペラードってあんなに強かったか?」という台詞。しかし映像はおろか、作劇的な面ですらデスペラードが強いところが全く見当たらない。これもGUN道クオリティの一端。

 そして今回の一番の笑いどころ。沢庵の「賢者の舞」。登場人物の大げさな驚きっぷりと、ありがちなギャグシーンのありがちでチープなすちゃらか踊りにしか見えない実際の映像とのギャップで笑う*1。しかも実際やった事は普通に殴って昏倒させただけ。意味がない。ここに限らずこの作品では、特殊なアクションをさせようとしても、それを具体的に考えてる能力(作画能力以前の問題)が全くといっていいほど欠如している。これもGUN道クオリティの一端。
 この後、蜘蛛のアヤカシの説明が妙にのんびりしているのも、ちょっとしたGUN道クオリティ(これが世間一般でもしばしば見られるので)。
 散々繰り返されてきたことですけど、弾丸の装填のカットと、実際の発射シーンで撃たれている弾の数が全くあっていないのも、標準的なGUN道クオリティ。
 蜘蛛のアヤカシの糸の太さや色が頻繁に変わるのもGUN道クオリティの一端。

*1:他所様を見ると「パロディ映像などで使われていたのは編集されていたのではなく、そのまま使っていたのか!」という感想も幾つか。「脳内ヘッドフォンカーニバル http://d.hatena.ne.jp/kommunity/20060528/p1」「『いちごうしつ』業務日誌 http://d.hatena.ne.jp/ichi5c2/20060527