機動戦士Ζガンダム 第三話『カプセルの中』

永野護

 居住ブロックを遠心力擬似重力のために回転させながら待機しているアーガマ
 ホワイトベースでは内蔵式になっていた、このブロックが、外付け(戦闘時は船体に密着して防壁の役割をする)になったのは、おそらくは一作目からのテクノロジー関連設定の進歩をアピールするためでしょう。事実、当時見ていて、非常に先進的で格好よく思えたものでした。

 アーガマ自体のデザインは、富野監督の前作『重戦機エルガイム』でメインデザイナーに大抜擢された永野護氏。永野氏は他にも、ノーマルスーツ等の小物のデザインや、リックディアスガルバルディβといったMSのデザインも担当。
 もう少し後に登場する、脚部内部が剥き出しなのが特徴的な「百式」も、永野氏による主役ガンダム初期案を、藤田氏が手直ししたもの。金色のカラーリングは富野監督の発案ですが、それも『エルガイム』で永野氏がデザインした、ポセイダル帝用に黄金をコーティングした「オージェ」や黄金とプラチナをコーティングした「オリジナル・オージェ」があっての物。
 永野氏のデザインしたMS、艦艇、小物などの多くは、後のガンダムシリーズの同種のデザインと比べて今見ても、ベストといって言いぐらい良いデザインです。

 さらに後半では、装備やボリュームがひたすら過剰になっていく他デザイナーのMSデザインを尻目に、一作目のシンプルながらシルエット自体が強烈なデザインに回帰した「ハンブラビ」と、歴代MSでも最高クラスの洗練度の「キュベレイ」(ただし、そのシンプルさと曲面とゆえに、立体化の難易度もべらぼうに高く、マスプロ商品ではMGプラモでようやくほぼ完全なものになった)をデザイン。

 他にも、「ムーバブルフレーム」などの文字設定や、実際の設定画、作画(特に左腕を解体させたガンダムMk2の肩口)などでの間接部や内部構造の表現、全天スクリーンと支持アームで宙に浮いたシートで構成されたコクピットなども、永野氏が『エルガイム』で発明した物。
 現在のロボットデザインや造形物、玩具などの基礎部分の多くに影響している、永野氏の発明は多いです。

 もっとも、『Ζ』の後番組続編『ガンダムΖΖ』では、主役メカなどのデザインして、メディアで発表された段階まで行くものの、玩具受けしないと考えたスポンサー等の意向で降板。『逆襲のシャア』でも初期デザインはしたものの、同じ理由で降板。

 永野氏はその後、アニメ業界を離れて、独自路線で活動して、今に至るわけです。

先行作の影響

 『エルガイム』と永野氏の影響以外にも、『Ζガンダム』に影響を与えた、当時の先行作品は多いです。

 『機動戦士ガンダム』に端を発した当時のロボットアニメやその周辺の進歩は、今から考えると、嘘みたいな急進歩の時代で、『Ζガンダム』はそれの集大成でもありました。

 もっとも、一本に集約され、それがガンダムの続編という後ろ向きな企画という時点で、ジャンルの過熱と急進歩が終息に向かっていたという事でもあったのですが。

 こうした進歩は、あの時代全般の風潮でもありましたが、特に影響の高い特定作品を挙げると以下のとおり。

 MSのボディの各部に補助ロケットモーターや姿勢制御バーニアを設けるデザインは『銀河漂流バイファム(1983年/神田武幸監督)』。

 MSの腰まわりの装甲板が展開するようになっているのは『装甲騎兵ボトムズ(1983年/高橋良輔監督)』。

 2クール目から登場する変形モビルスーツは、兵器としてのリアルさと変形システムを両立させた『超時空要塞マクロス(1982年/石黒昇監督)』と、海外展開でブレイクし、日本でもΖに少し遅れて逆輸入放送された『戦え超ロボット生命体トランスフォーマー(1985年)』。

 政治描写重視は『太陽の牙ダグラム(1980年/高橋良輔監督)』。

 主役メカといえど特別なスーパーメカ扱いされない作劇は『装甲騎兵ボトムズ』『超時空要塞マクロス』『銀河漂流バイファム』など、この時代に多く見られた、手法。

 ただ、集約してはみたものの、『Ζ』の場合、視聴者、製作者側ともに求めているものが多岐にわたる上に(スーパーロボット的な活躍とか、逆にリアルな軍事物とか、人間ドラマとか、ニュータイプとか、美形&美少女キャラとか、実にバラバラ)、さらに、初期話を見てわかるように富野監督自身の意向もまた、それらから大きくずれていたため、結果として非常にアンバランスな作品になってしまったわけですが。

エウーゴティターンズ

 当時見ていても、今見ても、一作目のヒーローの一人であるブライトが、ティターンズの権力の横暴にひたすら虐げられているのを見るだけで、「ティターンズ=悪」というのが感覚的に納得できてしまいます。
 他にも、ティターンズパイロットたちが、エリート意識と後方での訓練だけは充分なものの、実戦での経験がまるで足りない描写、ティターンズがまともな軍内部の組織でなく、バスクの私兵に近い存在である事も入念に描かれています。
 一方エウーゴ側は、そうした暴走した軍事組織であるティターンズへの対抗組織である事、ティターンズ同様人材が足りない事も描かれています。

 ただまあ、こうした描写は上手いのですが、反面、世界内におけるエウーゴティターンズの位置付け等の、大局的な説明というのが明らかに不足しています。
 一作目のように連邦対ジオンというシンプルな国家間戦争という図式なら、この程度でもよかったのでしょうが、『Ζ』の場合、連邦軍内の、親宇宙移民のエウーゴ派と、地球本土国粋主義ティターンズ派の内部抗争という状況の上に、それに連邦軍のその他大多数の部隊や経済界などが絡んできたり、ティターンズが官軍ではあるもののエウーゴも完全に連邦の敵扱いで無いなど、非常にややこしい背景設定になっています。
 本放送当時同時進行だった、富野監督自身によるノベライズ版の第一巻では、半分以上を費やして、本編第一話の時点前のシャアの視点で、こうした社会的状況の説明や、シャア自身がいかにして「地球連邦軍クワトロ大尉」の偽軍籍を手に入れてエウーゴに参加したのか等が説明されていましたが、本編ではこれはばっさりカット。これは小説と映像作品の違いを理解し、映像のパワーを信じる富の監督ならではの判断で、一作目でも同じ手法がとられていたわけですが、『Ζ』では、上手くいっていないように思えます。
 ただ、本放送当時に見ていて混乱しなかったのは、放送直前に書籍など(私が当時見ていたのはアニメ専門誌では無く、『コミックボンボン』や『模型情報』)で、ノベライズ版の内容に基づいた各種設定解説が公表されていたからでした。

この両親にしてこの子あり

 状況を把握せず、近視眼的な事ばかりにしか考えが及ばず、諍いまで起こすカミーユの両親。
 当時見ていると、信じられないほど愚かな二人とですが、今見ると、嫌な意味で実にリアルな家庭の風景。

 そして、人質にとられている母を見て、助ける事よりも、理不尽な文句を言ってしまうカミーユ

小ネタ

アングラ

 この言葉を覚えたのは『Ζ』のこのシーンでした。

白旗

 真空の宇宙で旗がはためいて「?」と思ったら、甲板への着陸時に、エアが噴き出している芸の細かさ。

無断出撃魔カミーユ

 カミーユが、この後、カミーユ自身やその他のキャラに続発する無断出撃の第一号。しかし、少し前のシーンを見たらストックが足りないからとパイロット用のノーマルスーツを着ていて、さらに、乗組員にパイロットと間違われるというシーンを入れて、乗れた理由付けはちゃんとされていました。

カミーユ母死亡

 俗説と違い、人間が生身で出ても、破裂したり、瞬時に血液が沸騰したり、凍りついたりという事はありませんが(したがって『逆襲のシャア』であった、ごく短い時間生身で宇宙に出る事も、可能)、それでも急激な減圧症で数分ともたず窒息死。
 監督、また残酷な殺し方を。

 この直後、ジェリドがなんともいえない不愉快さを感じるのですが、見返すまでは、安直な超感覚的描写かと思ったら、撃った後の「場の空気」によるものでした。