「上には上がいる」「他人は他人」

 今年、私は、シェイクスピアのローマ史劇ものを原作にした映画をいくつか見ました。『ジュリアス・シーザー』『アントニークレオパトラ』『タイタス』。
 でまあ、中から上の域ぐらいまでは満足が行きました。
 しかし、シェイクスピア劇の観賞経験豊富な方や、映画や文学の経験が豊富な方は、もっと厳しい批評をしている。
 チャールトン・ヘストン主演の『ジュリアス・シーザー』『アントニークレオパトラ』は、ヘストンのスター演技が目立ちすぎるとのこと。
 映画版『タイタス』は、かなり評判がよかったですが、それでも、私が信頼している映画批評家は、「アンソニー・ホプキンスのタイタスは立派すぎてかえってチグハグ」と、厳しい評価をしている*1

 しかし私は、それに対して、もし不満があったとしても、わざわざ反論を試みたりしようとしない。
 なぜなら、まず、本来の演劇を筆頭等としたシェイクスピア劇の観賞経験や、その周辺教養などが、ぜんぜん足りないから、反論の論旨の構築も根拠の提示もろくにできないから。
 さらに、自分より観賞経験豊富な方の意見は、尊重すべきという事を、理解しているから。

 どうしても反論する必要があるなら、充分な労苦をかけて自分の論旨や根拠を十分整えたり、あるいは、そうした方面に詳しい助っ人に頼んだりする。そうでないと、他人を納得させることができないから。
 もし、そうした事を怠ったまま、相手に認められなかったとして、「わからずや」などと怒るのは、単なる逆恨み。もし、後になって、なにかの拍子で、認められなかった意見の結論が正しかったと保証されても、認めてもらうための根拠や論旨の整備を怠ったという問題は、やはり問題である。

 そうしてこういう話をするかというと、要するに、世の中には、以下のような困った人たちがしばしばいるから。
 その分野について明らかに教養も理解も全く不足しているのに、その分野について自分の意見を人に認めさせようとする。
 その分野に精通している人たちに意見の問題点や、教養や理解の不足を指摘されても、自分の問題点を理解できないまま強情を言い張り、相手の方こそ権威主義者の陰謀家と決め付ける。
 多くの具体的事例による根拠を提示されると、反論のための事例を提示し返すのではなく、ろくな根拠もなしに自分の狭い見識による理屈を言い張る。
 話題の事について説明しても、その説明を理解するための基礎知識に欠けている上に、本当ならその不足を補う事を考えるべきなのに、ひたすら自分の無知に無自覚。

具体的な例

アポロ計画はトリック撮影による捏造というトンデモ説を信じ込んだ人。
 この人は「月宇宙船は技術的に不可能だ」と言い張るが、この人のイメージの中の宇宙船は、宇宙をプカプカ浮かんでいて(この人の頭の中では、慣性と引力のつりあいで軌道をまわっているのではない)、いつもロケット噴射をしていなれば止まってしまい(宇宙では慣性がダイレクトに働く事を理解していない)、真空だとロケット噴射をしても前に進めず(作用・反作用をわかっていない)、それどころかスペースシャトルが回っているところには空気がある(空気が無い事が衛星軌道をまわりつづけるために必要という根本的な事がわかっていない)という代物。
 ここまで無知だと、月宇宙船に関する技術や参考資料を説明しても、全く理解できない。理解不足という事自体に無自覚なまま、反論に充分な具体的根拠をしめさず、屁理屈だけを積み重ねる。
 挙句の果てに、「そんなに、資料とか、説明とか持ち出すのは、悪のアメリカ帝国を盲信しているからだろう」と言い出した。そう主張したいなら、そう言えるだけの、科学知識と理解と、それによる反論の具体的根拠の提示が必要なのに、それができないまま、自分の頭の仲の屁理屈だけで吼える。
 それどころか、かなり具体的な問題点の指摘が多数され、事後確認可能な文章の形でも残っているのに、指摘されているという現実自体を理解できず、「私にロクに反論できていないじゃないか」と事実に反した事を言い張る。
・あるドラマへの批判は不当な弾圧であると思い込んだ人
 この人は「そのドラマは必要充分なできじゃないか」と主張するが、この人が、問題ないと指摘している擁護内容は穴だらけ、他のあるドラマについて批評している内容は明らかな誤読解だらけ。それどころか、そのジャンルのドラマの観賞経験自体少ない。
 しかし、シナリオや演出のセオリーや具体的事例をいろいろと説明しても、観賞経験自体少ないので、全く理解できないし、理解不足という事自体に無自覚なまま、反論に充分な具体的根拠をしめさず、屁理屈だけを積み重ねる。
 挙句の果てに、「そんなに、観賞経験とか、映画批評本とか持ち出すのは、自分の観賞経験自慢だろう」と言い出した。そう主張したいなら、そう言えるだけの、観賞、批評経験と、それによる反論の具体的根拠の提示が必要なのに、それができないまま、自分の頭の仲の屁理屈だけで吼える。
 それどころか、かなり具体的な問題点の指摘が多数され、事後確認可能な文章の形でも残っているのに、指摘されているという現実自体を理解できず、「私にロクに反論できていないじゃないか」と事実に反した事を言い張る。

自戒のための教訓

  • 何かについての意見を述べるなら、その事について、自分より上がいて、さらに上には上がいるという事を忘れてはならない。
  • 物事の判断には幅が必要という事を忘れてはならない。何か一つもののに固執して、屁理屈を重ねるのは、もってのほかである。例えば、お気にいりのドラマ一つに固執して、その肯定のために屁理屈を重ね、世の中にもっとたくさんある物には目を向けないまま、「ぼくは、じゅうなんな、はっそうで、かたっているんだ」などと口走るのは、いけない。
  • 自分の意見を認めさせたいなら、やはり、他者を納得させるだけの具体的根拠と論理の積み重ねが必要である。意見を表明できる自由と、自分の意見が他人に認められる保証を、混同してはいけない。それに、十分意見の内容を整えたとしても、ちゃんとした見識の持ち主でも立場がちがったり、あるいは愚か者だったりと、自分の意見が通らない事はいくらでもある。まして、論旨や根拠を積み重ねる努力をしないで、「自分の意見が認められないのは不当だ」と言うのは、単なる逆恨み。