鉄人28号

 最終回
 シリーズ全体を見れば、そう悪くもないのですけど、不満点が多々ある物でした。

 今回及び、シリーズ全体の一番の問題点は、ただの機械に過ぎない鉄人に感情移入しすぎて、「それは君たちの単なる思い込みではないのか」と思いたくなるような、登場人物たち。
 普通、この手のマシーンに感情移入する話というのは、作った人の意志(もしくは遺志)を知った上で、マシーンはそれを託されたものとしてするものですけど、この作品の場合、鉄人自体に人格があるかのように扱った上で過剰に感情移入している。
 さらに、その「ただの思い込み」感を強めているのは、最終回で正太郎に決断を促すために、死んだふりをして騙す村雨
 これで、京極夏彦作品のごとく「それはただの思い込みだ」と作中で指摘されているならいいのですけど、逆に、村雨兄や金田博士の幻影など視聴者にも感情移入を促すような描写の連続で、かえって違和感が大きい。みていて、父がはげます幻聴を万丈が「あなたの助けはいらない。これは僕自身の力だ」と振り払い、自力で勝利をつかむ、『ダイターン3』の最終回とつい比較してしまいます(*)。

 あるいは、「金田博士自身の遺志はどうあれ、今の自分たちは、自からの意志で鉄人を使う」となればよかったのですけど、それも、最終回の「実は金田博士はやはりいい人でした。よかったよかった」と、金田博士の遺志で救われる形で、結局、作中人物たちの自立は踏みにじられている。

 主人公で戦後世代代表のはずの正太郎も、周囲の状況や大人の言説に振り回されっぱなしの上に、古典的な少年探偵らしい判断力や決断力をあまり見せないまま、キャラクターとしての価値が乏しい。

 『ジャイアントロボ』もそうでしたが、父子の相克のはずなのに、結局、父越えができていない。「父は父、自分は自分」と、なぜかできていない。

 『光る物体』とか敷島−ニコポン−コロロホルムなどをみると、サプライズという点では良く出来ていたのですが、ドラマ的な内実となると、どうも、なっていない。

 最終話で期待されていた、オックス軍団相手のアクション的な部分も、東方不敗先生初登場時の対デスアーミー軍団や、真ゲッター第一話のゲッターG軍団をやった今川艦長とは思えない、物足りなさ。

 シリーズ全体の、苦戦や敗戦が連続する鉄人の扱いも不満。
 原作だと、鉄人に絶対的な価値があるのは、他にロボットのあまりいない前半だけで、そうでなくなるのは他のロボットがたくさん登場するようになる、中盤以降。そして、原作でのストーリーや活劇の主役は正太郎君で、鉄人は正太郎君の活躍を助ける道具にすぎない。同様の例はバビル二世のポセイドン等の三つの僕(絶対的な価値があるのはバビル二世自身と、バビルの塔のシステム全体)。だから、鉄人が絶対的に強くなくても、問題ではない。
 ところが、このアニメ版では、作中世界のおいて鉄人は絶対的価値がある。なので、本来はその価値を具体的に示す、”超合金Zと光子力の魔神”マジンガーZや、”連邦軍の新兵器”初代ガンダム、”暴走”エヴァンゲリオン、そしてこのアニメ版鉄人の第二話のごとき、具体的な強さを誇示しつづける事が必要なのに、それができていない。
 動画枚数の制限とかの問題もあるでしょうが、強さを作劇的に見せるだけなら、脚本などだけでも可能な事。


 今川艦長、あまりできがいいともいえない戦中を背負ったドラマといい、活躍しない正太郎といい、中途半端な扱いの鉄人といい、明確な方針も立てずにこのシリーズを手がけたのかと思いたくなるのが、率直な感想です。
 おまけに、「故人や物品への、登場人物の過剰な思い込み」などのドラマ的構造や問題、『ジャイアントロボ』のときと、ほとんど同じです。『Gガンダム』だと、生きている師匠や肉親、恋人との対立と和解のドラマを描いていたので、こういう問題はなかったのですが。
 アニメ映画版では、思いテーマ性を扱うとか言っているようですが、今のままでは、不出来な代物にしかならないと思います。とりあえず、才能にムラのある艦長をフォローしてくれる優秀な副長(脚本家など)の起用を希望します。