戦争や政治の厳しさをどの程度の加減で描くか 1

 他所の掲示板で書いたことですが、自分のブログにも乗せてみます。
 元々は、SEEDを問題にして、「政治的問題をどの程度単純化/複雑化するか加減が難しい」という話。



 ロボットアニメに人種・階級差別問題を本格的に持ち出したのは、長浜監督の『ボルテスV』。
 この作品世界では、角を持つものは貴族、角のない者は奴隷というイデオロギーに支配されているボアザン星人が敵です。そしてボアザン星人は、「地球人は角のない下等生物だから、偉大なボアザン貴族が支配してやるべきだ」という理由で、地球侵略をしてくる。
 さらに、皇帝を筆頭としたボアザン貴族たちの多くは、権勢欲の強い悪人。
 ここまでなら、従来の古典的ヒーロロボットアニメのXX帝国等と同じ。

 ところが、ボルテスの場合、これで終わりません。
 まず、ボアザン本星でも、角のある無しで貴族と奴隷に分けられていて、奴隷たちは、自由を勝ち取るための闘争をしている。
 つまり、敵側にもあり程度複雑な、社会と社会事情が存在する。

 さらに、主人公たちの父剛健太郎の、物語の中盤で明かされる正体。実はボアザン星人の、それも皇位継承権のあった皇族ラ=ゴールであり、開明的な考えの持ち主だった。しかし、生まれつき角がなかったため、偽の角を付けて育てられてきたが、皇位についてすぐ、皇位を狙う邪悪な現皇帝ズ・ザンバジルに角が無いことを暴露され、一気に奴隷の位まで落とされ、そこから奴隷階級の政治活動家、地球に警告の使者としてやってきて、地球人の妻との間に主人公たちをもうけるが、その後ボアザン本国に戻ったところで逮捕され、その立場でも影ながら主人公たちを助けようとするなど、波乱の人生を送っている。

 そして最大の注目キャラが、敵幹部のハイネル。ハイネルも、母がボアザン人のラ=ゴールの息子で、主人公たちの母違いの兄弟。しかし、終盤になるまで、お互いその事を知らない。そして、その事を知る剛健太郎は苦悩する。
 ハイネルは、父をボアザン貴族にあるまじき不名誉な人物と考え、それゆえに、誰よりもボアザン貴族の理想的な精神を体現しようとしている。そのため、角が無い者は奴隷と考えるなど差別意識は強いが、一方で、良い意味での高貴な人格を持っている。しかし、大多数のボアザン貴族は、権勢に凝りかたまった腐敗した存在であるというのが、皮肉となっている
 そして、不名誉な父を持つ自分を地球攻撃部隊の指揮官に取り立てるなどしてくれた、現皇帝に恩義を感じ、尊敬しているが、実は現皇帝は、血統的に自分の地位を脅かすハイネルの戦死を期待し、ときには謀殺まで試みている。

 両種族の間に立つ、深みのある背景のある、剛健太郎とハイネルという二人のキャラクターの存在で、古典的ヒーローロボット物の体裁を崩さない範囲で、見事に人種・階級差別問題を上手く物語りに取り入れています。


 アスランって、上手くやれば、ハイネルのような、深みと存在感のある敵側キャラクタに、なれたのですけどねえ.....

戦争や政治の厳しさをどの程度の加減で描くか 2

 お返事どうも(注:元が掲示板への投稿なので)。

 私としては、『ボルテスV』は、「目的達成自体は単純に、悪の権力者を倒せば解決という話でも、深みのあるサブキャラをからませれば、それだけでも物語や世界観の厚みが増す」という事例のつもりで出しました。

 あと、同じ長浜監督の『ボルテスV』の後続作『闘将ダイモス』だと、やはり古典的ヒーローロボットアニメの範疇に収めつつ、後々の『ターンエーガンダム』を簡略化したような話になっていました。
 この作品は、地球に、母星を無くして都市宇宙船で放浪してきた、バーム星人が移住を求めてきたところから始まります。この移住要求は、バーム星人側のリオン大元帥が穏便な態度で求めてきたため、当初は地球側との交渉も上手く進んでいました。
 ところが、武力で地球征服すべきだと考えるバーム星人の過激派オルバンは、両国の交渉の場で、穏健路線のリオンを暗殺し、その巻き添えで外交使節に来ていた主人公の父も死んでしまう。過激派は暗殺を地球人の仕業に見せかけて、リオンの息子リヒテル(二枚目幹部キャラ)など穏健派も過激路線に転向させ、地球側も怒り、両種族の戦争がはじまる(といっても、ガンダム以前ですので、毎週敵ロボットがやってきて、ダイモスが迎え撃つというものですが)。

 そんな混乱の中、主人公竜崎一矢は、記憶喪失の少女エリカを保護し、やがて二人は恋におちる。ところが、エリカの正体はリオンの娘でリヒテルの妹。記憶を取り戻したエリカはバームに戻り、離れ離れになる。
 しかしエリカは、一矢への愛から、地球人と共存すべきと考え、兄リヒテルと衝突したり、一矢たちに情報を流したり、反オルバン派と合流して父の死の真相を探ったりして、戦争を終わらせようと懸命に努力をする(どこぞの歌姫様とは大違いで)。
 もちろん主人公一矢も、バームの攻撃と戦いつつも、両種族の平和共存を求める。

 一方、バーム側のオルバン大元帥、地球側の三輪長官(味方内悪役として名高い名悪役キャラ)といった、武断主義と権勢欲、偏見の塊のような悪役を、両種族側の指導者に配置して、種族を超えた愛情で結ばれ、平和のために努力する一矢やエリカなどと対比させるようになっています。

 もちろんラストは、ヒーローボットアニメらしく、エリカたちの活躍によってオルバンの陰謀が暴かれ、真相を知ったリヒテルとその部下たち(*)の協力もあって、エリカと強引に結婚しようとしていたオルバンの結婚式場にダイモスが突入。オルバンを打倒。三輪長官も失脚し、両種族の間に平和が訪れる。

*:この時にリヒテルの部下バルバスが一矢に助けを求めたときの台詞:「私は多くの仲間の命を奪ったお前を許すわけには行かない…しかし、これしかバーム10億の民を救う道がないのだ!頼む!竜崎一矢!!我等バームの民を救ってくれ!!!」
 戦いは間違いだと悟ったからといって、あっさり仲直りする、どこぞの人たちとは大違いで。

戦争や政治の厳しさをどの程度の加減で描くか 3

 話の収拾をつけられる範囲の、問題の設定をするというのも、重要でしょう。
 問題のややこしさのレベル設定もそうですし、その問題を上手く扱えるかどうかの製作者自身の能力の見極めも重要。
 ボルテスやダイモスの場合、ガンダム以前という事情もありますが、問題解決の条件は、ヒーローロボットアニメとして成立するように、あまり複雑にはしていません。

 他の例。今『ゾイドジェネシス』という番組をやっていますが、私は、この番組の製作者の分別のつけ方を高く評価しています。
 「暴虐な侵略国に対抗するゲリラ勢力的な主人公たち」という話ですが、内容の濃さなら『Vガンダム』の方をずっと高く評価します。しかし、あのレベルの内容は普通のアニメ製作者にはなかなかできるものではないし、玩具やプラモ目当ての多くの視聴者には複雑かつ陰鬱すぎる(Vガンダムは、内容は高く評価しますが、この点では大失敗作)。
 『ゾイドジェネシス』は、いまのところ、ドラマ的に凝った部分をディガルドへ抵抗することの困難さ(結構過酷な描き方)に絞り、それ以上話を複雑にしようとはしていません。これは、製作者自身の能力(製作環境は結構苦しいらしです)、視聴者への受けとられかたを考えれば、分別がついているといえます。


 SEEDの場合、その見極めができておらず、SEEDデスティニーはさらに重症化していると思っています。つまり、「たためもしない大風呂敷を広げるな」と。


 それと、前記のような主人公たちの活躍で問題が解決するような話ではなく、主人公の活躍だけでこの世の全ての問題が解決するわけではないとするなら、「主人公たちの活躍で、全てが解決するわけでではないが、それでも大局の流れの中に大きなマイルストーンを一つ置いた」という描き方もあります。
 いわゆるリアル系に多いです。
 たとえば『太陽の牙ダグラム』。この作品の終盤では、目的であったデロイア殖民星の独立は達成されますが、それで人類社会の全ての問題が解決するわけではありませんし、独立の内容事態も不本意な部分が多い。それでも、一定の成果をあげた上で、戦争の時代は終わったので、次の時代にむけて歩むべきだという終わり方になっていました。
 あるいは『銀河漂流バイファム』。主人公たちがしたことは、主目的はあくまで敵ククト人の捕虜になっていた家族の救出。副次的に和平への流れにも貢献しましたが、あくまでの、地球人の現地艦隊指揮官と敵ククト人の和平派との最初の会談の仲介をしただけで、それで即、両種族の戦争が終わるわけではない。しかし、この会談が和平への流れへの大きな一歩になったのも事実ですし、間接的にも主人公たちの行動は、ささやかながらも世界全体に影響を与えていました。

戦争や政治の厳しさをどの程度の加減で描くか 4

 さらに、「大局的な流れの中では、主人公たちの努力はささやかな物に過ぎない」というクールな描き方もあります。
 『機動戦士ガンダム』なんかそうですし、主人公たちが一作目よりずっと積極的に世界の大局に関わっているはずの『機動戦士Ζガンダム』はさらにその傾向が強い。
 富野監督作品だと、こいうのが多いです。

 前作SEEDの結末も、物凄く好意的に考えれば、こういう物と考えられなくも無いのですけど.......

 しかし、こういうのは、「登場人物たちが懸命に努力する姿」を描いてこそ、際立つ物。登場人物がでくの坊ばかりではいけない。

 SEEDの場合、政治的主張は、アレとかソレとかナニカとか詭弁でご大層に飾り立てていただけの代物。具体的な行動は、場あたり的に核ミサイルなど迎撃していただけのもの(プラントに残ったクライン派との連携を描いたり、ボンボン漫画版のようにアスランの行動に感動したザフト士官がザラ議長に反乱を起こすとかいう事をしていれば、かなり良くなっていたのですが)、ドラマ的にも仲良し平和路線派 対 虐殺キチガイ派とずいぶん単純になっててしまっている。
 むしろ、フレイを中心に、人間的な喜怒哀楽や衝突を描いていた前半の方が、遥かにマシ。

 現在のSEEDデスは、さらに中身が無い上に独善的で、トンチンカンで迷惑な行動をとるだけのキラやラクス、そのキラの弁護をする役回りをさせられてその言動をおかしくさせられているアスラン、暗黒面に落ちる理由が「愚かだから」につきるシンなど。そして、自身が利口というより相手側がことごとく勝手に自滅してくれるだけの上に、主要登場人物中唯一、まともに実行性のある平和のための具体的な製作や理念を示しているため「正義のマキャベリスト」に見えてしまう議長など、さらにダメになっています。