Fate/stay night 第22話「願いの果て」

 この話単発でみたらムード演出されていていい感じに見にえるでしょうけど、シリーズ全体の流れで見ると「この馬鹿主人公のどこがいいんだ?」「ランサーの久しぶりの登場と活躍、最期が唐突」「久しぶりに出てきていきなりラスボス化する言峰神父も唐突」「ずいぶん唐突で、しかも結論の端的な事だけの聖杯の説明」と問題だらけ。
 士郎が馬鹿に見えてしまう問題は散々述べてきたので省略。
 ランサー、言峰、聖杯の問題は、原作の今回の話に該当する部分では、三ルート構成前提で、第ニ、第三ルートであらためて描くために、あえて第一ルートでは露出を抑え腑に落ちない感じを持たせていたのに、それを単発のストーリーラインで完結するアニメ版で工夫無しにトレースしたため。単発ラインで完結するなら、ランサー、言峰、聖杯*1の問題はもっと前から「伏線」「話の段取り」として度々露出させておかなければならないのに、そういう基本的な工夫すらしていない。

余談

 他所の感想見て気付いた話の矛盾。今回イリヤは(XXが原因で)衰弱して寝込んでいる。キャスター戦の時も衰弱して寝込んでいた。......この二つの間のデートエピソードの冒頭でイリヤものすごく元気でしたが?
 デートエピソードのときに「今日は具合はいいのか?」「今日は大丈夫」と言わせるだけで、こんな矛盾はなくなるはずですが。

 それにイリヤが度々こんな状態なら、キャスター戦の時や前回の時点などで士郎たち(特に士郎)がイリヤの病状の事を全く心配しないのはおかしい。はっきリ言えば、キャスター戦のときからイリヤは寝込むほど度々体調が悪くなっているのに、主人公たちは今回になってようやく言及して心配しだすというおかしな話になっている。
 というか前回イリヤはどこにいた?今回イリヤは明らかに衛宮邸にいますし。

*1:キャスターが聖杯を召還しようとする独自エピソードなんて三話もあったのに、『Fate』の聖杯の独自のシステムや正体の一部説明の絶好の機会だったのに、「たくさんの魔力と魔術師一人の生贄があれば聖杯を呼べる」というファンタジー、伝記物でありきたりな事しか述べていなかった始末

うたわれるもの 第10話「傭兵」

 ......放送時間がずれて、Bパートの冒頭までしか録画されていなかった。
 カルラの初登場シーンは前回のニウェ皇同様ずいぶんケレン味がつようなあ。
 あと今回の作画は、カルラのグラマーさ以外にも、エルルゥなどの耳や尻尾がずいぶん跳ね上がったりして動いていたなあ。

うたわれるもの 第9話 「その名は東方不敗! ニウェ皇見参」「禁忌」

 以前からの不満は、敵側が馬鹿で下劣だったり、主人公側に都合のいい行動をとってくれたりといったことでしたが、国外からの敵との戦いになって、ようやく強くて貫禄のある敵になった。
 どれぐらい貫禄があるかというと声が東方不敗@秋元羊介氏。でもってハクオロの低姿勢の意図を正確に見抜いて興味を持つ利発さと余裕、手際よく侵攻を仕掛ける判断の早さ、ハクオロとの直接対決出の合理性*1を蹴飛ばしたようなケレン味ぶりなど。
 ハクオロの方は、謎の素性に由来するらしき爆薬の知識を、単純な攻撃に使うのではなく、相手側の行動を誘導して兵站を一箇所に集めてそこに仕掛けるという知略ぶり。爆薬の使用はこの世界の薬師では禁忌とされていながらそれを使わざるをえないし、その事以外にもそもそも敵兵とはいえ多くを殺す事をしなければならない王としての立場の苦しさ、それをアルルゥとエルルゥには見せたくないハクオロと、それを直視しようとするアルルゥ
 余談ながら、爆薬による火災のさらに後、敵兵へさらに苛烈に攻撃している事について。ドラマ的には戦いとはそこまで非情に徹しなければならないという事。現実的な戦術としても追撃の徹底は理にかなっている。

*1:火災の真っ只中今までどこにいたのか?など

涼宮ハルヒの憂鬱 第9話「サムデイ イン ザ レイン」

 前回もそうでしたが、今回もカメラワークによる演出が多い。一口で言うと「キョンが一人さみしく出かけている間、部室ではどのような日常が過ごされているかを観察」。
 部室を、ロングの全体俯瞰視点で映していて、それが複数設置されて固定された監視カメラのように視点が切り替わるカットが多いのは客観による観察視点とわかります。
 しかし、まるで本棚にカメラが仕掛けてあるかのような視点もあるのは何かと思ったら......ああなるほど、視聴者の視点になっているカメラ位置という想定で、しかもみくるの着替え時には(仮想の)カメラを長門が塞ぐという演出のためですか。
 それを考えるとBパートで長門の読書を長々映し、外の雑音を入れているのは、監視カメラ的視点の再現演出。まあさすがに長すぎるのではとも思いますが。
 一方キョンの方は一人往復していて、しかも天候は悪く(疲れる状況提示と、映像的にも陰鬱な感じを演出)、疲労や寒さを感じて早く部室に戻って落ち着きたいと考える......というように部室から阻害された状況や心境を演出。
 そうして「キョンが寝ている間にハルヒ上着を被せていた」「ハルヒキョンが二人で相傘で帰る」という”一人ではない”ラストにつながる。

追記

 ラストの上着が二枚着せてある件。視聴者視点では「長門では?」と推測できても、視聴者視点のカメラはそれを映さないし、キョンにいたってはみくると思って全く気がついていない。ハルヒ以上に行為の表現が下手(というかわざわざ見せる意思自体がない?)な長門も描写している。

Fate/stay night 第21話 「天地乖離す開闢の星」

 前回でも言及していて、今回で決定的に、原作第一ルートのセイバー個人への感情を中心に据えるようにして、原作では全ルート通しての重要なテーマだった士郎の正義信念問題の重要度を大きく下げた。まあそういう事をドラマの中心に据えるのは無難とは思いますが、それならそれで原作からシリーズ全体を通しての話を積極的に組みかえるべきだったでしょう。まあ実際にやろうとしたら大変なのはわかりますが。
 ギルガメッシュのゲート・オブ・バビロンや”天地乖離す開闢の星”エヌマ・エリシュは「まあこの程度」な迫力などの演出。ふと思った演出手法案の一つですが、車田正美漫画とかであるように「見よ!天地乖離す開闢の星!エヌマ・エリシュ!!」と技の説明的な台詞とともに技名を叫んで、攻撃を放つと直接的な衝撃以外にバックに”天地乖離す開闢の星”を表現する大自然とか宇宙とかの壮大なイメージ映像も出てくる.....なんてのはどうでしょう。エヌマ・エリシュならギャラクシアンエクスプロージョンぐらいハッタリを効かせて。
一方鞘の力を出すのに剣をさすというアニメ独自の描写は良かったです。
 でもまあ今回も二回も「士郎突貫−>死にかけ」となるのはどうにかならないかと。二回目の教会に無防備に行くところも間抜けですが、一回目*1の「セイバーが戦い始める前から”勝てない”と言い出すのはいいとしても、さらに勝ち目がない自分が突撃して、案の定あっさり返り討ちで死にかけ」というのはもはやギャグの域。色々とアレンジをいれているのですし、原作のこのあたりの士郎の行動を馬鹿正直にトレースる必要はない。

*1:セイバーが重症になった後にカリバーンを投影して挑むのは状況的にやもえない事ですが、で出しの突貫はフォロー不能